のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く。節約とポケモンが趣味の浪費家。

長崎の原爆資料館に行ってきた話

一泊三日で長崎に行って来ました。
そして原爆資料館に行ってきました。
書き始めてから記事の完成までにおよそ一ヶ月かかりました。それくらいメンタルが凹み(仕事のせいも大いにある)、筆舌に尽くし難い事を見たのだなと感じた。

一昨年位に広島の原爆資料館に行って、茫然自失状態に陥ったので今回は替えのマスクと大量のティッシュペーパーを持ち込みました。
朝イチで行ったのだが、見終わるのにものすごく時間が掛かり、危うく空港行きのバスに乗りそびれてしまう所だった。それでも、動画などは全てを見る事はできなかった。




人類という存在、そもそも生まれるべきでは無かったんだなと思った。もっと言えば、文明が我々には早すぎたのだなと思った。知恵を持つことが間違いだと思いたくない。だけど、核爆弾で一体何万人の人間の命が失われたろうか。

これを書いている今も辛い。
一ヶ月近く経つのにまだ辛い。
常設展示を見ながら、涙がとめどなく溢れてきた。生き地獄だった。最後の企画展が弱り目に祟り目だった。生の声は、心に突き刺さる。

太陽がもう一つ出現した様だったという話、
雲が目前まで迫り、自分を飲み込む様だった話、
まだ当時三歳だったけれど覚えているという話、いろんな話が書いてあった。「三歳の時のこと」と書いていた方は「三つ子の魂百までと言います」と描かれていた。
ああこの人は、「そんなの嘘だ」と言われたことがあるのだろうな。だからわざわざ注釈を入れたのだなと、そう思った。


深く深く傷付いた経験を、外に出す事、発信すること、誰かに語る事。それにはそれ相応の覚悟が必要だと私は思っている。

人に余計な事を言われて更に傷つけられる事は容易に想像ができる。
「○○すればよかったのに」「意味わからない」「説明してよ」などと言われる。「声に出す事」「文字にする事」には覚悟が必要だ。それが善意であれ悪意であれ、すでに散々傷付いている人間から言葉を引き出させる様な振る舞いをする人たちは己を一度顧みてくれんかという事を改めて思った。それが無知なのか賢いのかどうか、自分の頭で考えてみてくれよ。どうかお願いだから、他人に当てこすられ続けた人間の絶望に、思いを少しでも良いから寄せてはもらえないのだろうかと思う。調べる事はできないのかと思う。仕事でも同じだと思うけど自分で調べずに聞いてくる人と、自分で調べて聞いてくる人ではずいぶん違うだろう?


強い意志が無ければ到底人に話は出来ない。

私はそれを知っている。

そして話す事で、更に傷つけられる事も知っている。
優しい言葉より、悲しい言葉の方が心に残ってしまう。

加害していることを詫びる事もなく、厚顔無恥にこちらへ向かってくる人間達がいる。そういう存在に何百回傷付けられただろう。だから隠すんだよ。だから具体的に話さないんだよ。



「○○の被害者」「○○の人」としか見られない人生、烙印を押され、焼きごてを押し付けられる。とてもじゃないが、人に話せない。話したくない。苦しい。生きてるだけで苦しいのに、苦しみが十重二十重と重なる人生。

ヒバクシャという属性を無理やり押し付けられてしまった人生はどれほどの苦しみであろうか。苦しみだっただろうか。よく生きた。今までよく生きたと思う。被爆者として今生きてる人たちは高齢者だ。そこまでよくぞ、ここまでよくぞ生きたと思う。死んでしまった人も、よく生きたなと思う。

外に出す決心をした人達の信念や勇気や覚悟みたいなものを受け取って、人生に必要な「勇気」の事を思う。苦しい。書いてる今も泣きながら書いている。

国を相手取り裁判をする人達、矢面に立つ人達。生きてるだけでマイクロアグレッションの世界の中で、それでも発言する人達の勇気と、絶望しても生きる人間よ。あなた方の生き姿が私の気持ちを溺れた水の中から引き上げてくる。生きてるだけでこの世界は辛い。被爆者の人達の声を聞く。継承していかねばならない。
何のために苦しい思いをして、重い口を開けて発言したか、それはもう「私で終わりにして欲しい」という意思なのだろうと思う。
二度とこの過ちを繰り返してはならないという意思を継承することが、あの資料達を見てしまった人間達の責任だろう。感じ方は人それぞれだけれど、私は少なくともそうしなければならぬと思った。

原爆資料館の常設展示は、長崎に落とされたファットマンが起こした暴力行為からはじまり、被爆者達の声で一度展示が切り替わる。そこから始まる展示は、大日本帝国が侵略を行い、暴走を続けたという客観的な資料の数々だ。科学者が原爆を作り、アメリカが来る冷戦のために爆弾を落とす。歴史修正主義者達はここに来た事があるのだろうか?と思う。日本は侵略をしていない!虐殺はなかった!とか言ってしまえるのは歴史を受け止められていないのだなと思う。被害を受けた長崎は、こんなにも我が日本国の悪辣さを紹介しているのに、それすら認められないのは、この国はずっと「戦後」なのだろう。何故無条件降伏を受け入れたのか?国民のためではないのだから本当にこの国は芯まで腐ってるなと思う(書かないので調べて下さい)。

何でそんなに天皇制を維持することに意固地になるのかが分からない。呪いでしかない。好きに店に行けない、映画に行けない、友達に会えない、旅行に行けない、足抜けしても一挙手一投足週刊誌のパパラッチに追いかけられる人生。クソという他ない。私なら辛くて死ぬか自棄になるだろうと思う。逃げられるのならば逃げてくれと勝手に願ってる。彼ら彼女らにかけるコストを別の所に回したら良いのに。生活保護を打ち切られた90歳のおばあちゃんの安い家賃を、払ってあげられるのにと思う。

アメリカを鬼畜米英とはせず、大日本帝国の行いが引き寄せた出来事という書き方をしている。しかし、アメリカのした事で何が起きたのかを淡々と書いていく。原爆を落とした事でなにが起きたのかは、常設展示で散々書かれていたのだから、「中立」というのは、こういうことだろうと思った。加害者の国、被害者の国。被害に遭うのは軍事部では無い。私たち庶民である。

そして、今もなお行われる核兵器の実験。
ここが現実の日付となっている。
そしてそこが私たちの立つ場所。
実験によって健康被害を受けた人たちの現在進行形のインタビュー。

爆弾が落とされて死ぬのはいつも私たちの似姿だ。
映画、ドンドルックアップで生き残ったのは誰だったか。

私は核兵器を落とされた国の子孫であり、同じ様に侵略国家の子孫である。知らぬ存ぜぬで生きてはいけないし、生きていられない。
少なくとも私には無理だ。知る事には責任が伴うのだから。これは本当に起きたことなのだ。


目前で爆発を受けた人達の、筆舌に尽くし難い苦しみの事を思う。


最後の企画展で描かれていた被爆者の絵の中に
「ごめんなさい、なみだが出てきてしまってこれ以上かけません。これでも、なんにちもやすみながらかきました」
そう描かれた、人の死体(イラストとしては棒人間に近い)がごろごろと転がっていた。
あなたの勇気と、耐え難い苦しみを抱えて生きてこられた日々を、私に表現する事は出来ない、生きて、伝える事を選択された事を私は忘れない。


継承をする事について。
大学生くらいだろうか、それくらいの方が体験談を語り継いでいた。長崎の原爆被害の中で、一番有名位の写真がある。黒焦げになった子供の写真だ。それが、体験談の当事者の学友だったかもしれないことが判明したそうだ。
遠かった物事に、教科書の向こうの物事に、画面の向こうの物事に名前が付いていく。

私には知る責任がある。
だって祖父は戦争に行っている。
その影響の余波で私達の代まで呪いが続いている。知らなくないし、関係なくない。しんどくて知りたくなくても、辛くて心を壊しかけていても、タイミングが今じゃないにしても、知る責任があるんだと思った。

はだしのゲンの話がツイッターで上がっている。まさに今の日本の現状は、「文句を言ったら非国民扱いされる」あの世界がグッと近づいてきているなという事を思った。大人になってからも朴さんの事を思い出している。物語には、わかりやすい漫画には、意味があるのだなと思う。政治の話をすると、大体の人がどんどん反応が悪くなっていく。それでも私は、みんなはどう思うのかっていう言葉を聞きたい。それが私と違っていても良いんだ。

おかしいことに「おかしい」ということが必要で、それが当たり前で、「多様な価値観」という枠組みの中で、「全てを見て見ぬ振りしよう」とする世の中は違うと私は思う。
色んな考え方があるからと、冷笑をして、それを止めるでもなく、周りの人間たち、つまり私たちは冷笑し続けて、この世界はずっと悪くなった。私よりも若い子は選挙に行かなくなった、選挙に行くことは無駄で意味のない事だと思わされて。この世界を作ってきたのは、私たちでもある。これ以上酷い世界にしてはいけないと思った。どんな知識や財産や夢があっても、生きる世界が平和でなければ全て灰燼に帰す。文字通りの意味で。

出口の所にあったチラシを見ていた。今に連なる事で、歴史は忘れられると繰り返す。繰り返したくない、突発的に死にさえしなければ、出来る事なら穏やかに死を迎えたい。

http://www.nucfreejapan.com