のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く。節約とポケモンが趣味の浪費家。

大豆田とわ子と三人の元夫どうなるんでしょうか

感想は一人に一つなので書くよ。


私はカルテットという作品が好きだ。

同じく坂元さんが書かれた脚本で、カルテットを見て彼の作品のことが好きになった。カルテットは、欠点で繋がった仲間の物語だ。世界のルールと馴染めない人間達がたくさん出てきた。

今回の大豆田とわ子と三人の元夫に出てくる人間達も、世間に馴染めているとはいえないが、なんとか社会生活を営んでいる人間達が出てくる。

それを作中では「ルールを知っている人間」と「ルールを知らない人間」との二分をしている。多分意図的に。グレーで生きている人間達ばかりだが、あえて分けている。気がする。あくまでも「知っている」という言葉を選んでいるあたりからそう思うのだ。生きているとは言ってない。

第八話のネタバレから入る。

小鳥遊は七話の引きとはまるで違う人間で、実は「ルールを知らない人間」であり、「自分を生きることのできなかった人間」だった。(八話の段階では)

綿来かごめちゃんも「ルールを知らない人間」であり、とわ子はそんなかごめちゃんと「約束したから」と社長業に固執している。

周りの人間達は、とわ子が苦しんでいる事に気がついている。だから、辞めたら?とパスを出している。だけどとわ子はそれを選ばない。

自分の言葉で書いてしまうと、とわ子も小鳥遊も、「自分の人生を生きられていない」のである。
「いなくなった人のことを不幸だと思っては行けない」のだけれど、それでも、きっとそれを辞めたら、小鳥遊も、とわ子も、何かが終わってしまうと、多分そう思っているのだろう。

私はちょっと怯えている、他の方の記事を読んで、確かに不安が存在している。

ただの舞台装置として綿来かごめちゃんを消費されてしまうことを恐れている。

だって彼女は、この作品にわかりやすく初めて出てきた「ルールを知らない」「坂元さんの脚本に出てくるような人」なのだ。

アロマンテイックアセクシャルだろうと、おそらく憶測される存在だ。
恋愛至上主義でらぶらぶいちゃいちゃベタベタが世界では是とされる、私みたいな、接触があまり得意では無い人間には割と生きにくいそんな世の中だ。
恋愛とか男と女で歩いてるとすぐに異性愛扱いしてくる人間達に疲れ果てている人類が、この人ならば感情移入してもいいのかと思える人間だった。

田中八作の話をとわ子からされたくなくって、愚痴泥棒をしたフリをしてはぐらかした彼女は、一体とわ子と海に行った時にどんな話をしたのか、それが多分次週で明かされて、綿来かごめという存在が作品の中で更なる存在感を放つだろう。確かに作中でも彼女は尊重されているのはわかる。わかるのだが…。

かごめちゃんの死の犠牲の上に、とわ子が新しい恋愛を、新しいパートナーを得るような書き方になってないといいなと思う。居ない人の気持ちを好き勝手に想像して好き勝手に捏造しないでくれたらいいと思う。

とわ子は、高橋メアリージュンさんの役の人に「亡くなられた親友の分も頑張って欲しかった」と言われた時に、表情がみるみる変わっていった。その違和感を、どうか忘れずにいて欲しいと思う。(はなしはちがいますがとわ子がなぜ小鳥遊のこと好きになったのかもいまいちよくわかってないというレベルの読解力ですみません)

かごめちゃんの気配の残るリビングで眠り続けていたのが、ベッドに寝れるようになり、トロフィーを持ち込んでベッドに寝れるようになった事に一抹の寂しさみたいなものを感じてしまったタイプの視聴者です。
小鳥遊から貰った言葉で、とわ子は先に進んでいった。それは喜ぶべき事のはずなのにね。

とはいえ、ありきたりな終わりに向けて動くドラマでは無いと思う。だってそもそもかごめちゃんが死ぬなんて一体誰が想像できたよ?特別扱いされてるなー位に思ってたのに。

だからきっと想像の遥か上を飛び越えていい方向に進んでくれる、そうだったらいいなあなとど夢想する訳でした。
ちなみにこんなに怯えてるのは、私にとって怖い人がたくさん出てきたからです。パワハラモラハラマンスプ男とか、餃子パーティーの女性達とかね。


ちなみに八話で一番好きなのは英字新聞マンの下りです。元夫達が仲良くしてるのだけずっと見てるとかでも全然楽しいんだけどな。

今回はあんまりまとめる気のない文章になってしまった。読みにくくてすみません。