のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く。節約とポケモンが趣味の浪費家。

された事を忘れられない性分

良い事よりも悪い事の方をよく覚えていがちの人生を送っている。
例えば、どんなに良い読者に恵まれても、一つの批判に辟易し、それ以外特定のCPの小説を書かなくなった。

今日の日記はまじで何書いてるか自分でも分からん。多分言い訳だと思う。


人は変わらないものだと思い、その人間に昔にされた嫌な事をすぐに蒸し返してしまう。

私は変わる癖に、他人は変わらない物だと多分心の奥底で思ってる。何でそう思うかって、期待して傷付くのが嫌だからだ。

まあ、他人の事なんかこれっぽっちも考えちゃないんだなあと思う。浅ましい人種である。

他人の事は頼りにするだけで、信じたくない。だって期待されるのって負担じゃないですか。それもまあ重ねてわがままな話である。自分がわがままなのはよく分かっているので、わがままになりすぎない様に抑えてるつもりだけど多分そんなこともない。

願いや理想、それに対し現実に乖離がある。それは今まで「言っても無駄」という経験に裏打ちされたものの積み重ねによる所が大きいのだと思う。人間は育ちによって考え方がだいぶ違う。言葉を否定されて育ってきた人間は兎角卑屈になりがちだ。どうせ言っても響かない経験ばかりを積まされる。聞いてもらえたことは忘れるけれど、聞いてもらえなかったことは二度と忘れない。そういう物らしい。私だけかと思ってたけどそんなこともないらしい。

自分の意見を伝えたとて、尊重されることなどない、そういう生活の中で生きていた。誰も呪いを解いてはくれない、呪いは自分で解かねば、解けた事にならない。そんなこと他人は知らないから、見たままの私と、聞いたままの私を評価する。世の中そういうもので、諦めている。だって言わなきゃわかんないものな。パワハラモラハラをされて育った。だから自己肯定感も低いし、他人の目も気になる。他人は加害してくる物だとハナから決めつけてかかっている。パワハラモラハラをした人間は「親の教育が良かった」と本気で思ってるらしい。違うよ。「そうせざるを得なくってそう生きることを選んだ」んだよ。人間とは兎角愚かな生き物であると思う。


そんな訳で、変わる意思のある人間に、昔にされた「うわ、また政治の話だ」という顔にたいそう(勝手に)傷付いた結果、その人は「政治のことを話したがらないノンポリ」というレッテル貼りをしていた。

そしてその人は現にノンポリでは無くなっていたのに、された事を忘れなかったせいで、「人の話を聞かないねキミは」と大層悲しませてしまった。これは反省の話だ。自分に酔っていた、或いは諦めていたのだろうか。そうは思いたくないが、そういう言葉が出てくるということは、そう思っているのかもしれない。分からないけれど。

例えばここで毎日の様に政治の話をしている。それで他人が変わると思ってる訳じゃないが、少しでも日常会話で政治の話をできるような世界であって欲しいと思っている。それは私にとっては祈りみたいなものだ。どうせ通じない。通じないと思ってないと心の均衡が保たれない。
言葉は嘘をつく、タテマエで話をする、心のままに伝えれば人を傷つけるし自分も傷つく、言葉にすると滑り落ちるものはある、難しいなと思う。言葉を習得した人類はディスコミニケーションに悩み続ける。

言わなければ分からない、だけど無い訳じゃない、分かってると思う。
だけど多分そういう感情の機微を拾えるのは心優しく、周りを見れる人たちで、理解をしたいと願い実行する人たちあると思う。私は多分、そういうことが分からない。分かった様な顔をするけど、多分、分かってないんだろうなと思う。言葉を尽くすのもコミュケーションの齟齬を無くしたいと思っているはずなのにな。

自分を正当化してるのかもしれない。怯えているだけかもしれない。ただ、反省もしているのは事実だ。育ちの呪いが解けないのも事実だ。二人きりで遊ぶの好きなのに、人と向き合うの苦手なまである。
向き合って破綻するなら同じ方向見てた方がいいと思いつつ、逃げてるのはダメなのかもしれない。わからん。

呪いは自分だけが納得して解けるものだから、ときたいと願うならば、努力をしなくてはならない。わからん。甘えてるだけかもしれん。


書いたら少し分かるかと思ったけど、結局自分が自分に甘い言い訳(言い訳では無いんだけどと思っている時点で駄目)をする人間なんだなあと思った。
よくわかんなくなったのでここで締める。