のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く。節約とポケモンが趣味の浪費家。

大豆田とわ子と三人の元夫特別編はいつですか?

終わってしまった。
だけど終わりじゃない。
出港でスタートして、改めて、出発していった。

前回の感想が、自分に向けて書いた文章だった(あとカルテット見たことある人向け)ので、今回はもう少しわかりやすく書こうと思う。
なので、読んで頂けると嬉しいです。

今回のドラマは「フジテレビのドラマを見る層に、トレンディドラマでは無い、坂本裕二の作品を見て貰う」という目的が作品作りの根幹にあったのだと予測している。それはなぜなのか?追って後述する。

ナレーションの伊藤さんがとわ子の心情を読み上げることや、オープニングアバンで「今回はこんな話だよ」という紹介、テレビ放映時の恋愛全振りな「間違いでは無いが本筋では無い」サブタイトル。(ドラマを見た人なら分かると思うが、元夫とゼロ距離で…!?の様な肝心ではないシーンへの煽り文がついていて、恋愛至上主義ではないタイプの人間なので割とゲンナリした)

私は坂本裕二さんの脚本が好きだ。
カルテットと花束みたいな恋をしたしか見てないが。

彼の得意とする「物語の余白」を削り、受け手の想像の余地を削るこのドラマの努力の向かう先に、いったい何があるのだろうと考えた。

脚本家の坂本裕二さんとはどんな脚本を書かれる人か?
私がかの方の好きな所は、社会におけるいわゆる、馴染めないはみ出し者を描く事に長けている所だ。
(話はズレるが、綿来かごめのような「じゃんけんのルールがわからない人」や、中村慎森の様な「変わり者」と言えば分かりやすいだろうか。はみ出し者である自覚を持って、生きづらい世の中を暮らしている。ハリネズミになることで、逃げるのが上手になることで、自分に踏み込ませないというコミュニケーションをとっている。)

坂本裕二さんの出演していた「プロフェッショナル 仕事の流儀」では「マイナスで生きている人たちを、ゼロにする様な作品が描きたい」と、語られていた。

そんな彼が、フジテレビの火曜日21時という、おそらく良い時間帯のドラマを書いた(テレビ嫌いで普段見ないから分かんないけど)。
正直言うと、放送開始と一話の時点では不安がデカかった。
だってフジテレビなんて良いイメージが全然無いんだもの。インターネットフレンドも同じ様に何人か不安の声をあげていた。認識が間違ってなかったと少しホッとした。

おっかなびっくりで、一話目を見た時は「心の声にナレーションっているかな?」って思ったし、二話目の「ゼロ距離」が押し出された時にゾワっとしたのは事実だ。
だけど、一話目以降は過度なナレーションは無くなったし、あれは一話の段階で分かりやすさのためにやってた事なのだろう。と思っている。

そんな風な「大衆向けの分かりやすさ」から始まったけれど、本編、中身は坂本さんだった。

この作品を見て。
「生きている・死んでいるに限らず、人間を蔑ろにしない」というメッセージを受け取った。

西園寺のおぼっちゃまの様に「奥さん」という時代錯誤の言葉を使う/なんの悪意も無く、「奥さん」は使用人のようにこき使っていいと考えている無自覚悪意に塗れた人間。
離婚3回した男社長は「僕(男)の離婚は勲章だけどとわ子(女)の離婚は傷」呼ばわりだ。私たちはそれまでドラマを見てきて、とわ子が元夫達の暮らしを充実させてきた事を知っている。だから、彼の振る舞いはとわ子の人生を否定し、女性をモノ扱いして、「男である俺」の手中にハラスメント的行為&マンスプレイニングで女を手込めにしてやろうという有害な男性を描いている。

また、他にも綿来かごめちゃんの様に恋愛感情や性的欲求が人に向かない人間がいること。八作の様に(これは私の仮定だが)複数の人間を同時に好きになる人間がいる事。マー君の様に、透明にされてきたレズビアンという存在が昔から存在していた事。きっとマー君の年で女同士で生きる事は困難な事だったろうと推察される。今よりもずっと家父長制の時代だったろう。マー君がむしろ一人で生きてる(様に見えた)事が、反骨心の表れなのかもしれない。

現実に存在する差別を「可視化」し、透明に扱われている人間を「可視化」し、「フジテレビのドラマを見ている大勢の人間が差別や弱者や、いろんな生き方をしている人間を認識する」という事が、今回の作品の意図であったと強く感じている。車椅子の方、外国の血が入っている方、いろんな人がいた。みんなも気が付いただろうか。わかりやすく、色んな人間がいることを書いている。

作品を俯瞰して見るのも好きなので、そういう意図があったんじゃ無いかと思っている。



※ちなみにマー君がとわ子を肯定したのは「つき子さんの選択を尊重した」。
「いなくなった人を不幸だと思ってはいけない」「とわ子と唄ちゃんを尊重した」という事なんじゃ無いかと思っている。

マジカルニグロとして機能している様に見えるのは事実だし、私も一瞬そう見えたし。問題なのは、『作品の見せ方として、フジテレビの火曜日ドラマを見ている視聴者にわかりやすく、マー君を肯定しなかった。』事だと思う。

でもきっと、とわ子は今後マー君との付き合いの中で「なんでこんな素敵な人を選ばなかったのかわかんない」とか、そんな風におちゃらけたりするのかもしれない。それにマー君は笑うんじゃないかなと思う。マー君が(おそらく)独り身を貫き通したのは社会に対する抵抗と、つき子さんが大切故の選択だろうと思う。30余年、バレエシューズを飾る。どれだけの想いがあったのだろうか。

マー君は、とわ子達が帰った後に、つき子さんの手紙を見て泣き崩れるのかもしれない。それは、私たちの知らないお話だ。

しかし、あの手のドラマで「レズビアン」を出した事に、坂本さんの心を感じる。だって世間的には分かりやすい同性愛者としての存在は「ゲイ」ばかりだ、「レズビアン」は凄く透明なものとして扱われている(そもそも女が透明な存在である)

そんな日本の現況において、女と女の恋愛関係のある人間の可視化/二人で生きられない女性差別が確かに存在している(あの書き方では、「していた」という書き方であったが感じ方は人によりけりな書き方であったと思う)よ、という所を描いた作品だからなのだろうと思います。

まだ書きたいことがあるので下にも続きを書くが、「あのドラマにおいて何が描きたかったのか」という妄想という名の考察は以上だ。

以下10話の感想。


・とわ子の愛は「健康でいてほしい」「野菜食べてる?」「笑顔でいてくれたら何でも良い」なんです。元夫たちは受け止めるんですよ。それってとっても幸せなことだとは思います。
この文章を書いている私自身は、異性愛の恋愛が得意では無いタイプでして(むしろ大抵の場合は苦手)。恋愛と出産が地上最高のものとして扱われる世界に馴染めないんです。
そんな訳で、恋愛性愛ハッピーエンドじゃないエンドがすごく嬉しかったです。連帯する事、選ばない事を選ぶこと、自分が好きになれる自分を生きること、それは全てとわ子が自分で決めたこと。それを受け止めてくれる存在が存在していること。私の求める、理想の世界がそこにはありました。

・焦げ中村慎森。「お土産っているかな?」って言ってたのに、しかもお揃いなんて。可愛さメーター100%ぶち壊して宇宙に到達しそうですけど。
この作品の中で、多分一番変化したのは慎森だろうなと思う。
慎森は他人に思えない。

慎森は地獄の餃子パーティーでとわ子の優しさに気がついた。
そしてみんなと仲良くしたいなと思って、変わる方の努力を選んだ、御免なさいが言えるようになって、雑談ができる様になって、お土産を喜んで渡せる様になって、好きな人たちとするパーティは楽しい事に気がついた。パーティの後片付けが楽しいことを知った。
それは、とわ子と八作と英字新聞マンと唄ちゃんが教えてくれた事で、それを受けて慎森は変わろうと努力をしたのだ。

働きながら恋をするとわ子のことが好きで、手放してしまったことを後悔していて、とわ子のことを受け入れるために、慎森も頑張ったんだねって思う。とわ子の事を受け止めてくれて、自分の好きな自分でいたいと、とわ子の心に寄り添って、気づきを与えてくれてありがとうと思う。

山崎パンの広告入ったの今回初めてな気がするけど違ったかな。

・とわ子の服装も毎回オシャレだし、唄ちゃんのパーカーがナショジオなのも最高。参宮橋っていう土地柄も素敵だし、出てくるもの全部おしゃれで最高。家賃高そう。女社長って夢がある。かっちょいいぞとわ子。

・とわ子は、仕事をして恋をする人間だ。ずっとずっと、最初から変わらない。とわ子好き。

・網戸なんだな

・キャンプに行った富士の裾野、その後樹海に迷い込む元夫三人と、とわ子と唄ちゃんとマー君の話を特別編でやってほしい。どこに伝えれば叶うだろうか。ブルーレイボックス買えばアンケートついてくるかな。

・最後のパーティ、あんなに幸せなことあるんだなって見ながら少し泣いた。




今生活が忙しいので、また時間ができて見返す時が来たら改めて感想を書こうと思います。人の感想って、読むのすごく楽しいよね。