のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く。節約とポケモンが趣味の浪費家。

哲学を持て、と語る人間についての己の考え

またふんわりした話を書く。
これもまた自分の内面の整理のためなので話があちこち飛びます。
書いてて意味不明になってきた。


ある男性は「哲学を持て」と言う。
私は「自分の人生を生きろ」と言う。

その言葉の差異について、考えてみようと思う。

彼は人間は他の動物と明らかに違う所があり、それは「宗教を持てる事」だと語る。

それに対して私が反論をするならば「人間の言語しか人間には理解できないの。つまり、人間だけが宗教を持っているとは限らない。人間だけに限ると決めつけるのは人間の傲慢だ」と、今なら反論できるだろう。昔は、聞きっぱなしだったが、今ならそう言える。

彼は真面目な宗教者であった。
「誰が見ていなくても、お天道様は見てくれる」と常々語っていた。
「自分の信じるものは、人を幸せにするものだ」と語る。

私も該当の宗教についてはしっている。納得できる所もある。私が常々思っている「他人の足を踏むな」に通じる所も、ものすごくある。宗教を得てしてすべてヤバイものみたいに扱う人たちは勉強したことあるんだろうか?
まあ、それはまた別の話なのでここではコメントを控える。

彼のいう、哲学とはおよそ「彼の信じる宗教」の事を指す。哲学を持てば自ずと人生が正しい方向に進んでいく、とのことだ。

その宗教を信じて、純粋培養の中で100%の善人として生きている子供も知っている。まじで世間の汚い所かなんも知らない、人間の善性を信じている瞳をしていた、所作振る舞いからもそれが随所に現れていた。すげえなと思う。

話がずれた。
何が問題かというと、私にとっての彼の言い分からして、該当の宗教は「便利装置」として使っている様に思えてしまうのだ。

「それ」を信じることで全てが良い方に成るというのは、人の話を聞けない人間の建前に使えるとも言える。

人の話を聞けない建前だと思う理由は、彼らの今までの振る舞いに全てが含まれているから、プライバシーの関係上、ここに書き記さない事にする。言えないことが人生多いわね😌一番肝心なところが多分ここなんですけど、鍵もかけられないのでここにはかけません。


まあその、「便利装置」が、存在するとして。それを使う為の、仕組みを丁寧に説明してこそ、言葉を尽くすからこそ伝わると思う。
それは、私が「納得しなければ物事をやりたくない」性分だからとも言えるかもしれない。

良いものは良い。科学で解明できない事を、そう伝える事しか出来ないのはオタクあるあるなので気持ちは分からんでもないが、それは果たして「彼の言う、哲学を『使って』いるのか?」という所が引っ掛かるのだ。

言葉を尽くさない人間や、自分を持たぬ人間、或いは誠実であろうとしない人間と話をすると、会話を交わした気がしない。街宣車に言葉を投げかけて、街宣車が打ち消す様にスピーカーでがなり立てている様にしか聞こえない。

なんでもそうだが、「持つ」だけならば誰でも出来る。赤ちゃんだって出来る。
それを「『使って』生きなければ意味が無い」と私は考える。そうでなければ、対話をしないで良い為の便利装置としての建前があるから、便利装置に頼れば対話をしなくて良いという事にならないだろうか。

自分の人生を生きる為に必要なのは、自分の考えだ。つまりは、「哲学」とも言い換えられると思う。でも「持つ」だけでは果たされない。

断言することは気持ちが良い。100%正しい側なんて無い。こんなこと言ってる私だって間違い続けている。大事なのは、「自分の考えている誤りや思考から逃げないこと」だ。結局のところ、私の人生をやるのは自分なんだよな。

昔は私も彼と大体一緒の街宣車だった。断罪し、見下し、馬鹿だと吐き捨てるのは楽だ。自分が偉くなったみたいだものな。今もまだ呪われてるから、まだ多分過去には囚われていると思う。

思考回路をねじくりまわし、過去の忌々しいあれこれを思い出し、読んだ本の言葉をさらい、じくじくとした傷を見返し、観た映画から言葉を探し、そうやって生み出される考えにこそ、本質があるんじゃないか。
学んだ事を吐き出すだけで人に物事が伝わると思ったら大間違いだ。

便利装置を持つだけなら誰でも出来る。

本は読むだけでよければ誰だって読める。私だって(記録してるわけじゃないけど)3.400冊はざっと読んでる。(人によっては読めないよそんなにとのことだったので、読めない人もいるかも知れないがとりあえず卑近な例として自分をあげておく)

『考えろ、言葉を尽くせ』という事が多分私は言いたいのだと思う。
考えて考えて、考えた上での結論であることが望ましい。
その時代やその人間それぞれに相応しいありようがある。
「持っている便利装置や哲学」を、『使う』ことが肝要なんじゃないのかと思う。

模索することでしか自分の中の最善(最高でも正解でも無い)は生まれないのだと、私は思う。それは宗教でいう所の修行の様なものだろう。

他人の幸せに尽くす事は素晴らしい事だ。
その時に、少しで良いから我が身を振り返ってみてほしい。幸せを祈りながら、「誰かが自分を見てくれる」と、そう思ってはいないだろうか?お天道様は見てくれる、誰かは見てくれる、そう思って「承認」を求めてはないだろうか。

世の中の人間は、私(と、ここでは表現する)の事を見ている様で見ていないものだ。
人に親切にする事は、徹頭徹尾自分の為にやることと決めないと、「あんなに尽くしたのに!!どうして答えてくれないんだ!!!」と勝手に喚き散らしかして、結果嫌われる。

だから、お金や時間を尽くすのは自分の為だ。世の中の為になんかならない。寄付をするのも自分の為だ。そう思う位の方が、ずっとずっと気が楽だ。

期待をするな、他人は自分の繰り人形じゃない。その事を理解したうえでなければ「他人のため」に動くのはただの浅はかさの成せる技しか無い。その上で動くならなんでも良いと思う。

自己肯定感が低いから、他人に認めてもらおうとする様に、思える。
己がそれで己を傷付ける結果になるのなら、優しさなんか持たない方が良い。

どうかまずは自分を大事にしてくれ。自分の人生がうまくいかないからと、他人に叶えてもらおうとするな。自分の人生を差し出して、相手からの人生の見返りを求めた時点でその振る舞いは相手に伝わっていると思う位で良い。大体、過去の自分みたいな人間(もちろんまだ私も抜け出せてない)をみてるとそう思ってしまう。

やり直せないことも、取り戻せないことも、どうしようもないこともある。何かをどうにかしたいと思うなら、まずは自分の人生を「考え」て生きてみたら良いんじゃないだろうか。

学びは生かさなければ勿体ない。
私は貧乏性なので、定価で買った本は舐る様に読む。結果生かすことになる。

自分の人生を生きる為に、持ったものは、生かさねばならない。
持つだけでは、ただの知識のひけらかしであり、他人も自分も幸せにしない。他人を幸せにする前に自分の望みをはっきりさせないと心が腐る。だから他人を大切にしたいならまずは自分の事を深く知るべきじゃないか。便利装置だけに頼れば、他人からは信頼されない。言葉を尽くさなくてはならない、と私は思う。

ちなみに人に好かれたいなら後腐れのないお金を配るのが一番良いと思います。私はお金が便利で大好きです、それがあれば欲しいものが買えるから、作家さんの差し入れも現金にしたいくらい。週末会う予定の誕生日の友達にはお金をあげます☺️
お金も便利装置ですが、それ配るだけで好かれようとするのはでもなんだか虚しくなりそうですね。

話が強引になってしまった。そんな感じの結論で締めくくろうと思う。