のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く。節約とポケモンが趣味の浪費家。

本能という言葉の認識がスタァライトで変わった話

本能という言葉が嫌いという話を前に書いたと思う。
嫌いな理由は使われ方の問題なのかな、という気がしてきた。知識は人を豊かにするという話です。オチはない。

本能という言葉は人間の振る舞いを都合良くそれっぽく定義付けする事や、恥に対する免罪符に使われていると私は感じている。

例えば、「母性本能」だとか「男には女をどうこうしたい本能がある(書きたくないからお察し下さい)」だとか「子供を愛するのは親の本能」だとか、そういう言葉である。
私はそういうのが嫌いだ。

知能があれば理性があり、理性があるから社会というものが成り立っているのだと私は思う。(知能があまりない方もいて、その方も社会生活を営んでいる思うが、そもそもその人の話をしている訳ではないのでここでは言及しません)
子供を愛さない親もいる。母性本能が無い人もいる。アロマンテイックアセクシャルもいる。

先述した様な、そんな「本能」が仮にあるとしたら、極端な話、そしたらそこらじゅうで乱交が起こり、女は産む機械、男はセックスのことしか考えてないことになる。子育てをすることが本能?
本当に勘弁してくれ。出生率を上げることが素晴らしくて美しい価値観で生きてねえっすわ。
こんな酷い世界に、烏滸がましくも新たな命を生み出すなどとそんな恐ろしいギャンブルできないっす。


話がズレた。
本能。
好きではない言葉なのであまり考えないようにしていた。
しかし、スタァライトの中で良く「本能」という言葉が出てくるので改めて考えてみた。

star divineの歌詞には

それは運命 それは本能 今もう一度私になっていくから

劇場版のスタァライトでは

生まれ変わった光を胸に、命が求める新たな血肉。歌い、踊り、奪い合う。それが野生の本能ならば。99期生 神楽ひかり。運命は変わる。舞台もまた

と、ひかりちゃんが口上を述べている。

そして最後に、「私たちはもう舞台の上」では

果てなき空 星を目指せ 恐れずに
リズムに合わせて手を叩こう
踊る様に歩こう 軽やかに
本能のままにホップステップジャンプ
ステージは続く ラララララ

と、エンドロールが始まるのだ。

どう考えても、「本能」という言葉が先述うんざりしながら書いた言葉の意味では無いだろう事は分かる。
分かるので、調べてみた。


「本能」という簡単な言葉には、複合的な意味があり、例えば一言で言い表せる様な言葉で無い事を知った。

https://kotobank.jp/word/本能-135224

私が印象に残った部分を幾つか引用してみようと思う。

最近では生得的,1次的動機づけ,またはそれらに基づいて解発される行動のパターンなどを意味する記述概念となってきている

本能とは,結果についての見通しをもたず,事前訓練もなしに,特定の目的を達するように行動する能力である

ワトソンWatson,J.B.は,その代表的著作『行動主義Behaviorism』(1930)の二つの章を「人間に本能があるか」と題した論考に充てている。彼は,人間の行動を,学習によらない行動unlearned behaviorと学習された行動learned behaviorに区分し,心理学者や生物学者が本能とよんでいるものは,前者のリストには含まれていないと主張した。したがって,「本能などなく,心理学用語として必要ではない」と断じ,いわゆる本能行動は学習された行動,つまり訓練の結果だと明言した。

複合的な意味を含む言葉だからこそ、何度も繰り返し使われる言葉なのだなという事を思った。
複合的であるからこそ、作品に出てくる「本能」が、毎回使われている意味が同じとは限らない。

「本能」という言葉には「己を開放的に出す」であるという意味合いがあるのかなと思う。

文字だけで見れば「本来の能力」でもある。
己を探し、己を燃やし、己を再生産する為の物語だ。だからこそ、「本能のままに」という言葉が使われているのかな。とも思う。

「己のまま」という意味にとれると言ったら良いのだろうか。
誰にも相応しい舞台(めざす舞台や立つべき舞台と作中では述べられている)がある。

その為に「己が知る、あるいは己が持つ、本来の能力」を発揮する為の「本能」という言葉のチョイスなのかなと思ったという話です。



ワルキューレの騎行を聞いている。
これも劇スである。