のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く

九月、東京の路上で。1923年関東大震災 ジェノサイドの残響 を読みました

恥ずかしい。苦しくて悔しい。知らなかった事が恥ずかしい。

怒りで手が震えるので、冷静な文章が書けない気がしたので日付を跨ぎながら書きます。
読みにくかったらすみません。

表題の本を、ここ数日通勤電車の中でずっと読んでいた。
定期的に寒気の様な、背筋から血がサアッと下がっていく様な感覚に何度も襲われた。目眩がした。書いてある内容の残虐さ故、メンタルが元気じゃない時には読めなかった。

表題の本は関東大震災の時に東京関東近郊で起こった「朝鮮人虐殺(実の所は程よく中国人も殺されていた)」の見聞きした話や、当時残されていた文面をまとめた本である。

ずっと読もう読もうと思い続け、ようやく購入した。

まず、購入したきっかけというのが、またオリンピックである。
オリンピックでのあれこれ最低の事を皆さんも嫌になる程見聞きしたとは思う。その中で、
小池百合子知事が関東大震災朝鮮人追悼の会に、追悼文を送らない」というのを見かけたのだ。

自分にできる事。
それは、まず「知る」ことからはじまると思っている。

ツチ族フツ族のジェノサイド。アウシュビッツでのユダヤ人のジェノサイド。人を殺すことに罪悪感など覚えない、それが仕事だからとケロリと言ってのける人間達の様を沢山見たり読んだりはしていた。世界には残虐で愚かな人間の歴史が無尽蔵にある。

関東大震災の際、朝鮮の人達が「井戸に毒を入れた」という流言飛語によって虐殺されたと、そういう話は「さらっと」歴史の時間に習った記憶はあった。
日本国内でも、そんなことがあったのだなあと他人事であった。

少し話はズレるのと、本当に恥ずべき考え方をしていたという懺悔も含めてなのだが、小学生の頃の自分は『数百人「とか」そういう「単位」の話なんだろうな』などと、当時は思っていた記憶がある。
今思えば、だが。
何が単位だ、一人でも1000人でも、損なわれる命の尊さに変わりはないだろう。数字にする事で問題を矮小化するな。過去の自分だって沢山の本を読んでいたはずなのに、そんな考え方しか持てない人間だったのだと、怒りなのか、やるせなさなのか、胸が痛くなった。

話を戻す。
小池百合子知事が公約を守らない、何もしない自分ファーストの人間である事は皆さんも良く知ってると思う(舛添さんのが自転車の道路作ったりしてくれたので良かったと思ってる)。

そんな小池百合子知事が私は嫌いです(投票する時は、宇都宮健児さんに入れました)。
どうせ意味があってわざわざ追悼文出してねえんだろうなと思い、何故出さないのか、まず私自身が知らないのだから知らなくてはいけないと思い、怒りのパワーそのままに購入しました。

書いてある内容は、様々な人たちが関東大震災の時に経験した事をまとめた内容になっている。


どんな事を見かけたか、どんな事をされたか、どの様に虐殺が行われたのか、罵声を浴びせ、日本刀で斬られ、川に流され、警察署に雪崩れ込み殺される人たち、生きたまま廃線路で焼かれる朝鮮の人たち、おそらく殺されたであろう中国人達を、ザマアミロと見ている民衆達。

朝鮮人が暴動を起こして日本人を殺す」と流言飛語を流す民衆、それを止めない警察官、流言飛語を訂正しない新聞社たち。ジェノサイドは東京だけでは無く、関東一帯に広がったという。殺した人間達は、その後、ほとんどの場合裁かれることがなかったという。子供の作文に出てくる位にありふれていたそうだ。

その状況の中でこんな話があった。
「この人が井戸に毒を入れるのをみたのですか」と言い、今にも斬られそうな朝鮮人の前に手を広げ庇おうとした女性がいたそうだ。
その文章を読んで涙がボロボロと溢れてきた。

虐殺の最中、人間の感覚が麻痺している中で、目の前の人を守ろうとを言える人間が「それ位しかいなかった」という事実が、あまりにも辛すぎた。
ずっと虐殺され続ける人たちの話の中で、初めて出てきた、人間の矜持を保った人間。その少なさに驚愕した。悲しくなった。

その後も、ぽつりぽつりと守ろうとした人の話が出てくるが、本当にごくわずかだった。

2005年、カトリーナというハリケーンが訪れた時には黒人が流言飛語によって虐殺された事実があると、紹介されていた。



先日福島の方で大きな地震が起きた時に「韓国人が井戸に毒を入れた」という「ネタ」をTwitterに投稿した日本人がいた。
こういう流言飛語を細々と放置すると、関東大震災の様なジェノサイドになるのだろう。ヘイトスピーチが流言飛語だとわかっていても、見て見ぬ振りや放置をしていけない理由が、愚かな群衆がそれに扇動される可能性があるからなのだと、ようやく私は理解した。
火のないところで煙を立て、加害する事を目的とする言葉は、そもそも人の目に触れさせてはならないのだ。

きっとその人は軽い気持ちで「なんとなく韓国の人が嫌いだから言おう」位の気持ちで言ったのだろうと思う。
その一言がいつかジェノサイドを引き起こすのかもしれないという可能性になぞ、考えも至らないのだろう。

韓国の人達が日本を許せないのは当然だと、歴史を、現状を学ぶにつけ思う。
謝ったんだから許してもらえると思うのは加害者の思考であるとつくづく思う。怒ることに疲れ果てて、許さざるを得なくて諦めている人たちもいるだろう。

謝られても許せない事って、ないですか?私はあります。この前東洋経済オンラインだった思うんですが、そこで読んだんですけど、慰安婦にされると知らず、米軍のために吉原に連れてこられた生娘達が沢山いたという話を読んでこれもまた目眩がしました。

ちなみに私は韓国の人の従軍慰安婦にさせられた人たちの話を詳しく知りません。あまりにも辛すぎて、水木しげる先生の漫画をちょっと読んだだけで具合悪くなってしまったので。
知らなきゃいけないのか。どうしても勇気が出ない。あまりにも辛い。

そもそも日本は国単位で韓国にお詫びしたんでしたっけか。敗戦国になる前に、どれだけアジアの諸国を植民地支配をしたんでしたっけか。という怒りと恥で感情が無茶苦茶になった。靖国参拝?まずは植民地支配をした国に、日本式の気合入れや犯罪や尊厳を奪った行為、略奪行為に対し、詫びを入れるのが先決だろうと思う。

搾取と病理のオリンピックを見て、戦中のことに触れている人が多くいた。オリンピック本当に必要でしたか?まじで分断しか感じませんでした。すごく人間のこと嫌いになりました。友人達のことも己が危惧した通り、案の定嫌になりそうになってて本当に辛いです。私は弱い人間だなとしみじみと思いました。

「始まったのだから応援しようといって、好意的に捉えられた為、あの戦争を誰も止められなかったのだろう」という絶望の言葉をたくさん見かけた。

今(戦後)も昔(戦中)も、この国は変わっていないのだ。
いつまで経っても、旗振りをする愚かな民衆で居続ける限り、自分たちの歴史を教育や勉強で顧みない限り、この世界は変わらないだろう。私はそんなの嫌だ。殺したくない。殺されたくない。誰にも侵略されたくない。


本書の第三章は、できることならば本を読んで欲しいと思う。それくらい渾身の言葉で溢れている。

142頁-147頁の「あの朝鮮人達に指一本触れさせねえぞ 隣人を匿った村人達」は、今にも通じる考えやマスメディアに対する眼差しが書かれていた。この国の病理は、マスコミのせいで根深いというのもあるのだろうと思う。

人は忘れる生き物だ。
だから、忘れない様に、人間達が今まで行ってきた残虐な行いを、繰り返さない為に、歴史を学ばなければならないと思う。

例えば南海トラフ地震が起きた時に、また同じことが起きないとはいえない。
その時に、私は虐殺される側でない限り「あなたはこの人が井戸に毒を入れるのをみたのですか」と、人間の前に手を広げて立ちはだかる。そういう人間になる。

差別をしていないか、差別にノーと言える人間でいられるか、常に自問自答しなければならない。

世論がどうあれ、私は私の考えを貫ける様にいたい。その為には、平和な世の中でなければならない。
治安維持法がまたできたら?私は刑務所に入るかもしれない。
そうなりたくない。
だから、戦争を始めないうちに、できることをしなくてはならない。
選挙に行くことも、友達と政治の話をすることも、差別は許さないと伝えることも、それなら私にだってできる。

この搾取と階級に溢れたこの世界を、変えなくてはならない。容易に変わる事は無い。だからこそ、できる事をしなければならない。

それこそが人間の矜持だと、私は思う。