のらくら備忘録

忘れたくない事と忘れたい事を書く。節約とポケモンが趣味の浪費家。

育ち

Q過去に戻ったら何をしたいですか?
Aきちんと言葉を尽くす様にある親に伝え、ある子供を抱きしめてあげたいと思う。


ふんわりした取り止めのない話を、忘れない為に書き記しておこう。書く事で整理されることが沢山ある。


子供は親を選べない。
ヤングケアラーであることを求められ、それを察した子供は「喜ばれるために自ら進んで」それを受け入れる。
親に「選ばれる」ために、そういうことをする。(親がいる家庭の子供は)子供の世界は、親が多くを占める。

教育は大事だ。
話を聞いてもらえない家庭で育った人間は、他人は話を聞かない生き物だと思う。他人を信じられない。他人なんて何を言っても無駄だと経験から学び、絶望する。
絶望した事も忘れ「それが当たり前」だと思う様になる。そうじゃない人間が沢山いる事も知らず、諦める様になる。実体験に勝るものは無い。
絶望していることに気がつく事もなく、ヤングケアラーであったことにも気がつかず、気がついたら大人になっている。いつまでも認められなかった子供を抱えた、歳をとった生き物だ。

周りの人間達は、そんな過去も知らずに「あの人はそういう人だから」と、切り捨てる。切り捨てられて、更に人間不信が加速する。

言葉はウソをつくものだ。
言葉だけでは語り尽くせぬものもあると思っている。言葉の奥に潜むなにかを知るためには、その人間を知らなくてはならない。

分かって貰えないから一番楽な結論にしがみつく。
分かってくれる人の存在が救いになる事もある。言葉を尽くすことを恐れなくなる。分かる意志のある人間は、打てば響く。打っても響かないのは自分を持たぬ人間だ。

そういう人間は残念ながら、私とは違う生き物だと思うしかない。
受け売りをしゃべり、思考をしない人間は人間ではない、ただの生きて言葉を発している何かだ。
街宣車みたいなものだ。繰り返し繰り返し、思考を止める前に覚えた事を叫ぶだけのいきもの。自分が世界で一番正しいと勘違いした愚かな生き物だ。


映画や本は、知らぬ人間のことを知れる。世界には色がある。言葉がある。苦しみがあり、喜びがあり、光もあり、絶望もある。晴れもあるし曇りもあるし雨もある。
存在を知ることが、そのまま救いになることがある。何が救いか、なんて、「その人の歩んできた人生による」としか言えない。だからこそ、世界には沢山の創作が必要だと思う。
繰り返しになるが、何が救いになるかなんて誰にもわからないんだよ。


嫌いな言葉がある。

まずは「信じる」
他人に託すな。己の選択くらい自分でやれと思う。「頼る」を使うことにしてる。

次は「体調管理」
体調が自分如きに管理できるわけねえだろバカがと思う。管理できるなら癌もコロナも無いだろうよ。

この困難な世界で、せめて選び取ったものが己の救いであることを祈る。

選べなかったものを捨てる事もできない人間を愚かと笑うのは簡単だ。だけどそんなの、さびしいだけで、何にも救われないのだ。
救いを求めて、救いが得られなくて、忘れる人間の選択はある意味正しい。それも生き方だと思う。むしろその方が楽かもしれない。



呪いを振り撒くのが大好きな人間達へ。

自分の影響力を、自分の言葉に責任を持てと思う。誰かに与えるかもしれない悲しみと苦しみを推し測れないのならば、誰かに対して、断定した言葉を使うべきで無いと私は思う。
誰かを思う様に変える事はできない、理解を示す事だけにとどめて、理解できない事は「違う人間なんだ」と思うだけにしてくれ。

否定された人間は、その苦しみと戦うことに心を費やし、心を燃やし、人生が無茶苦茶になるんだ。

自分の人生を生きるために、どうか自分の人生を生きさせてやってはくれないだろうか。呪いをかけるのを、やめてくれないか。加害の意思のない他人を受け入れられないなら、そっとしておいてやってくれ。


私も今まで放ってきた呪いの言葉がきっとある。覚えてないだけできっと沢山ある。人間は存在してるだけで加害者だと思う。存在してるだけで最低なのに、生きている事を偉いとは思う。矛盾してるのか、なんなのか、そこまでまだ分かっていない。

背負わされた宿命を、個人の所為にするのは頂けない。そういう人たちがいるのは知ってるけれど。

呪いを断ち切るために必要なことってなんだろうって考えたけど。

「自分の人生を生きると決める。その為に、すべきことをする。出来ない時は休む。出来ない事は頼れる人に頼る。人には得手不得手がある。頼る人がいないならお金を払って聞いてもらう。お金が払えないなら、図書館に行って、本を読む。寄り添ってくれる本を探す。そんな余裕がないなら生活保護を受ける。行く気力が無ければエッセンシャルワーカーなどに頼む。」
などが良いんだろうなと思う。
そう考えると「金と力がない人間」から「頼る」という自尊心を奪い取る事は、命を奪い取る事にも等しいんだなとしみじみ思ったよ。

どうか、自分の人生を手に入れる為に、社会から与えられた結論からは抗ってくれ。自分が納得して死ぬ為に、生きてくれと思った。

その為にも、加害欲求のある人間や、無自覚に加害をする人間に、言葉を尽くして誤りを説明をするのは、戦える人間達の義務に近い所があるのだと思う。矛盾しているように見えるな。

うーん。

なんというか。
自分の中の正しさをギュウギュウに「押し付ける」のではなく、考えをすり合わせて、どこの考え方が「違って」何が「合わない」のかを、すり合わせる必要がある。もちろん、それが誰かの足を踏んでいたら、退けてもらう必要がある。足を避けてもらってから、それから、会話をする。

会話をする為には、自分の意思が必要だと。街宣車に向かって話しかける人はいない。

簡単に言えば、そういうことなんじゃないだろうか。